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耳そうじ

雑記
耳そうじは気持ちいい。だがしかしそんな頻繁にするものでもない。一ヶ月に2、3回すれば充分だし果てはしないでもいい。それにしても耳くそは一体どのようにして誕生するのだろう。鼻くそはわかる。鼻は呼吸やにおいを嗅ぐときに動員される。なかなかウェットなポジションである。その上で老廃物的なサムシングが誕生するのはなんとなく自明であるのだが耳くそは解せない。音を聴くだけ、といってもかなり重要な仕事をしているのだがなんというか感覚的に鼻を肉体労働とすれば耳はデスクワークなどのさっぱりしたような労働のように感じる。何をいっているのだろう。ともかく鼻の排泄されてしかるべきものが鼻くそなら耳は耳くそとして何を排泄するのだろうかということが疑問だ。鼻ほど汚れはしないだろう。それなのにどうしてなのか。自分なりに答えを出すとすれば耳くそというのは鼓膜によって弾き返された音の断片であるのだろう。形を持たない音の欠片が具象化して集積したものが耳くそなのだ。なんかビューティフルじゃないかそれは。汚い言葉を聞いてばかりの人の耳くそはドス黒かったりきれいな言葉を聞いてばかりの人は真っ白だったりするのかもしれない。ところで日本人の耳くそは乾いたものが多いそうだが外国人の耳くそは湿り気があって粘ったものが多いらしい。おそらく体質的なものなのだろうが聞いている言葉がそれに影響しているとなるとなんかおもしろい。日本語は乾いていて外国語は湿っているとか。実際そんなことはないのだろうが。

耳そうじをしているとき意識は耳かきを手繰る手と耳に集中する。他の器官はそのあいだおざなりになっているような気がする。目はどこを見ているのかわからないし口は呆けたようにだらしなく開いている。もし耳そうじをしている姿を写真に撮られようものならすごく間抜けな表情をしているに違いない。きっと耳そうじをしているあいだは意識が一点に集中している。感覚は宇宙にいる。頭は耳そうじ以外何も考えない。そういう体験はもしかしたら貴重なのかもと思う。

かわいい女の子に耳そうじをされたいという思いがある。もちろんひざ枕で。よくよく考えると陳腐なのだがなんだか憧れがある。他人に耳そうじされているあいだは本人は全く身動きがとれない。耳そうじをしている側の人間は自由だ。何をしてもいい。自分のひざに身体を預けている人間を殺すことだってできるかもしれない。その生殺与奪の状態にときめいているのかもしれない。
耳そうじだけ特殊な位置づけがなされているように感じる。だって鼻そうじはないからだ。例外的にお母さんが鼻がつまった赤ちゃんの鼻を吸ってそうじをすることがあるらしい。それは愛情である。耳そうじは愛情表現なのかも、いやそうだったらいいなと思う。毛つぐろいよりも高尚で生物的で濃密なコミュニケーションだろう。
誰か愛情をくれ、お金は払うから。