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日本文化私観 書評レポート

この本は(というよりエッセイは)文筆家、坂口安吾による日本文化批評である。かなり乱暴な表現も多いが、彼なりの日本文化論が展開されており楽しみながら読んだ。そういえばこの本は青空文庫でも読むことができる。青空文庫とはネット上に著作権の切れた作品や著者が自由公開することを許した作品のテキスト(文章)を公開し、誰もが自由に閲覧することができるデジタル図書館のことである。本を入手できなかったため青空文庫にて閲覧した。「日本文化私観」は4つの章から構成される。1章は、「日本的」ということ、と題され、ブルーノ・タウトというドイツの建築家が論じた日本文化論を批判し、安吾自身の日本文化論を語ることを宣言している。2章は、俗悪に就いて(人間は人間を)、というタイトルで、安吾の京都での体験が語られる。伝統ある荘厳な寺社仏閣よりも安吾の記憶に残ったのは嵐山劇場の汚い便所と車折神社の石に描かれた俗悪な人間の欲望であった。見てくれこそ美しいが空中楼閣の伝統より俗悪と言われようとも人間の人間らしい営みこそが真実でありまた胸を打つものだという。3章は、家に就いて、と題されている。「家」には「帰ら」なくてはならない。「帰る」という行為の中には必ず悔いや悲しさといった魔物が潜んでいるという。その中で人は孤独であり文学はそういうところから生まれ出るものなのだと安吾自身の文学観を語る。終わりの4章は、美に就いて、と題され、安吾の美学が語られる。美は、特に美を意識して成されたところからは生まれてこないという。「美」は「やむべからざる必要」から立ち現われる。そうした実質性が求めた独自の形態が「美」を孕むのだ。それは文学にも同様であった。だから安吾は細工を凝らされた寺社よりもドライアイスの工場や刑務所といった必要のみによって作り出されたものに強く惹かれたのだ。「法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」というよく知られる一節はこの章に登場する。これはただやみくもに法隆寺を壊せというわけではなく、必要ならば、という実質性を強調した文である。安吾は伝統をけして軽んじているわけではない。

読んでいて非常に興味深かった。私はこうしたエッセイを読むのが非常に好きである。小説も好きだが書き手の息遣いをつぶさに感じるエッセイはたまらなくおもしろい。この本で非常に共感したのは4章の「美」についての部分である。「美」とは必要という部分にのみ立ち現われ、美を意図された細工は本当のものではないという。実質性こそが美しいというのは非常によくわかる。私自身実質的なものが大好きで、G-SHOCKのような無骨だが機能性の高い時計には惚れ惚れするし、実際身につけるものも軍の放出品といったミリタリーものが多い(軍モノは実用性と機能性において設計されているため一切の無駄がなく美しい)。そこで、ファッションという部分において安吾の言う「美」が色濃く反映されるのではないかと考えた。大学内で見かける他の大学生の服装を見ると、なんでこんな必要のないものを身につけているのだろうという疑問を抱く。その最たる例は帽子である。日差しを避けるためでもなくハゲを隠すためでもなく(いるのかもしれないが)必要を要求するものが一切ない状態でなぜ帽子(ここで想定しているのはつば広のハット)を身につける必要があるのか理解できないし、せめて講義中には外せよと思う。『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するスピードワゴンが繰り出す帽子カッターのように実用性を伴っていれば別だが、武器にもならないのなら身につける必要がないじゃないか。他にも理解できないものはたくさんある。髪染め、ピアス、伊達メガネ、無人島に行って誰かに自分を見つけてもらいやすくするため以外には髪を染める必要がないし、『ドラクエ』のキラーピアスのように二回攻撃できないピアスはいらない。伊達メガネはレンズがないなら身につける必要がない。それらが醸し出す雰囲気による効果はさしおいて実用性は一切ないだろう。ことにファッションにおいてはよくわからないがそれもそれなりの伝統があるのだろうと思う。ファッションについて述べたが、自分自身音楽や文学という一般的に役に立たない無駄は大好きなので実はただわけのわからない他人の自己主張のファッションをけなしたかっただけなのである。無駄が一切存在しない世界は恐ろしい。実用性において廻る生活はきっと息苦しいものになる。何にも紐づけられない宙ぶらりんな剰余を愛したい。

これは学校の書評を書く課題なのですが、いつもこういう感じの文書を教授に送りつけてはほくそ笑んでいます。