帰省した

f:id:jpmpmpw:20180120015923j:image

帰省した、帰ってきた、夜は真っ暗になる何もない地元に。東京で暮らしていると遠い地元に帰るのは何かと億劫になる。新幹線代は片道2万円ほどだ。往復したらPS4とゲームソフトが1本買えてしまう。

去年の夏に帰ったっきりだったので半年ぶりの帰省となるが特に大きな変化はなかった。誰が住んでるかわからない家が燃えて、顔は知っているが名前は知らない年寄りが亡くなったらしい。そんなことを母から聞いて知らんがなと思った。小さいころに弟とサッカーをした空き地に家が建つらしい。何もこんなクソ田舎に住まなくてもいいのに。

 

自分の住んでいたところは山の奥で、電車はおろかコンビニすらない。買い物に行くのすら親に車で連れて行ってもらわないといけない。保育園からずっと一緒の同級生。学校は小中一貫校、全校生徒は小中合わせて100人ちょい。人が少なすぎるのでクラス替えはなく胸を踊らせるやつは最初からなかった。関係も顔ぶれも何一つ変わらない。ラブロマンスもない。そんな鬱屈した生活に風穴を開けようとしていた半グレのアウトサイダーたちは登場したが、グレ方も振る舞い方もわからないので大きな音を立てながら原付で乗り付け、町で1番明るい自動販売機の前でくっちゃべるしかなかったようだ。みんなどうしようもなかったのである。

 

でも楽しいこともいっぱいあった。周りが自然にまみれているので野山を駆け川で釣りをしたりと、都会の人が羨ましがるようなことが何でもできた。春はタケノコを掘り、夏は野菜を収穫、秋は栗を拾って柿をもいで食べた。冬は祖父のイノシシ狩りに付いていったり雪遊びをした。そのどれもが手の汚れる体験でとてもおもしろかった。季節が変わると「そろそろ栗拾いの時期だなぁ」なんて今でも思い巡らしたりする。どれもが食べ物に結びついているのは自分が食べ物について卑しいからだ。とてもいい経験をしてきたと思う。地元はお酒も何もかもがすごくおいしい。

 

だけど何もない隔絶された環境で育ったからこそ、何でもある都会への憧れはそのぶん強かった。お昼の時間に東京の生活を啓蒙してくるテレビ、田舎では映らないテレ東のアニメ、夜中に食べ物を買いに行けるコンビニもすらもないクソ田舎では憂さ晴らしをする場所はない。早く何でもある場所に行きたい、と思い高校に通い、一生懸命勉強して京都の大学を卒業し、今は東京の会社に就職している。思い焦がれていた都会に来れた。電車に乗るのは今でも新鮮で、東京に来て1年経った今でも人の多さに驚く「御上りさん」である。

 

都会と田舎の生活はどっちがいいかと聞くと一概には決められないだろうが、ずっと田舎で育った自分は都会での生活がいいと思っている。逆に、ずっと都会で育った人は反対のことを言うのかもしれない。絶対的に今は東京の暮らしのほうがよくて、おもしろい人にもたくさん出会ったし友人もできた。ずっと求めていたものは東京にあった。だから東京が1番だ、ということを言いたいわけではない。地元の暮らしも自分にとってもちろんかけがえのないものだ。

東京にいると、東京出身者が「田舎で暮らした〜い」などとこぼすことがある。何をちゃんちゃらおかしいことを。何もかも恵まれているのになぜ地方に行く必要があるのかと思う。田舎を引き受けていた人間からすると嫌味を言われたような気がする。きっと彼らの求めているものは牧歌的な自然体験、人とのふれあいといったレジャーでしかないからだ。ムラ社会において常に地元住民に監視されながら送る生活を彼らは知らない。

最近地元を啓蒙する動きが目立つ。もちろんいいことだし、その活動によって人が来て地方が活性化していくのは将来のためにも重要なことだ。自分がそういうことをしていないので、活動している人は素直にすごいと思う。だけど東京の人が啓蒙する田舎にもコンビニくらいはある。訝しんでしまう。自分のところは東京の人が求めるドラマ性とか物語は何もないので地方の人のあたたかさや「心の豊かさ」みたいなのを訴えかけて来られると薄ら寒くなってしまう。経験としてある。充実してる人間が何を言ってるんだ、首を切り落として自分の頭と挿げ替えてやりたいと思う。それでも自分が住んでいたところは好きだし、地元に対する愛もある。気に入っている場所も風景もたくさんある。年を経ればいつかやっぱ田舎がいいよな〜〜となる日が来るのかもしれない。しかし今は何でもある東京で暮らしたい。「物質の豊かさは東京だけど、心の豊かさは田舎だよね」とか抜かすやつがいたらグチャグチャにしてやる。

 

久しぶりに地元に帰ってそう思った。

田舎は空が澄んで星がきれい、とはよく言うが星なんて見ない。いま自分はゲオで借りたマンガを読むのに忙しい。