『カルチュラル・スタディーズ入門』書評レポート


 

 私は以前にこの本を読んだことがあるのだがところどころ読み飛ばしていた部分があったのか、今回読み直すことで新たな発見やハッとすることがありとてもいい刺激を受けた。読後の感想はというと、やはり「文化」は多種多様に横溢して散乱し、これが「文化」であって、それは「文化」ではないという言い切りや区別ができないものであるのだなあというものであった。言い切ってしまうその行為こそ「文化的」ではないのだろう。

このように文化ということばはつかみどころがなく非常にやっかいなことばだといえる。自分は文化のことを人間がやることなすことその所作すべてだと大雑把にとらえているので、私に言わせれば日常のだいたいが文化なのだ。私は今図書館でこの文章を書いているが、図書館内の「Be quiet」という雰囲気やその中での振る舞いの作法も文化であるし、音漏れしてるのにそれをもろともせず傍若無人に振る舞うブスはその図書館のアウトサイダーで、静かにしなければならないという図書館の暗黙のルールに鬱屈して、安っぽいイヤホンという記号を用いた抵抗、反抗を試みているのかもしれない。それは旧文化への対抗としてのカウンターカルチャーであるといえる。すなわち文化だ。もしそのブスが闘争に打ち勝てば好きにしゃべってよい、好きに音漏れしててもいい騒音図書館というものが誕生するのかもしれない。そんな図書館が誕生してしまったらあのブスの思うがままやりたい放題になってしまう。ああおぞましい、恐ろしい。


ブスはさておいて、この本で私が特に印象に残ったは、スチュアート・ホールが言ったとされる、


カルチュラル・スタディーズは、「汚い」世界の問題をアカデミズムという「清潔」な空間に持ち込むことである


ということばである。そんなこと言っちゃうんだと呆気にとられたがまさしくその通りなのではないかと感じた。この一節を読んで昨年聴講したマンガの講演会での吉村和真さんのお話を思い出した。細かい部分は覚えていないが、吉村さんが学生時代、大学の教授にマンガを題材にして研究をしたいという旨を伝えると教授に学問は趣味や遊びではない、と冷笑されたというお話である。今でこそ笑い話にできるがその当時はアカデミックな場は清潔でなければならないという考えが支配的だったのだと思うとなんだかゾッとするハナシである。吉村さんはなにくそ、とその経験をバネにいっそうマンガへの思いを強めたという。


 現代ではある程度マンガ、アニメ、ゲームなどに理解が進んでいるように感じられるが、まだそういった「汚い」ものに抵抗がある人間も相当数いるのだろうなと思う。自分と同じ若い世代にもそうしたものを学問という場で扱っていいの、と疑問を感じる人間もまた多いだろう、というか私自身そうした質問を投げかけられたことが何度かある。それは学問は神聖不可侵なものでマンガやアニメなど汚いものはご法度というインプリンティングがなされているためであろう。お上からそういう刷り込みを受けそうした考えを持った人間が再生産されてしまうことはなんら不思議なことではない。

 本書では教育のことについても触れられており、その中でアカデミシャンが「汚い」アカデミズムをゲットー化させ、不純物から伝統を守ろうとしている状況が印象に残った。手垢にまみれた伝統を必死に守ってどうするのだろう。伝統は創造的破壊によって乗り越えられ更新されていかなければならないものだと私は考える。現在という時代はそういった意味でのアカデミズムの「過渡期」だと思う。私は丁寧に磨かれて来た「清潔」なアカデミズムに唾を吐きかけてやりたいしありったけの「汚い」ものを氾濫させてやりたい。おそらくそれがカルチュラル・スタディーズであろうし、学問に留まらないカルチュラル・スタディーズを実践していきたいと思う。

 書評とは何を書けばいいのかよくわからなかったがとにかくこの本はいい本だ。これから何か難しいことを考えてみたいトンガリボーイ、ガール諸君におススメである。






書評レポートの課題でこの文章を提出したらやんわりと怒られた。


書評がわからない、書評くんのこと、もっと知りたいし書評くんといっしょにお風呂に入ったりして仲良くしたい。