捨てられるものは

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最初から捨てられるためにあるものはどこか悲しい。

 

これは飲むヨーグルトの中蓋だ。青いキャップの下にある、内容物があふれ出ることのないようにするための安全弁である。飲むヨーグルトは二重に蓋がされている。キャップをひねって開けて、中蓋のつまみを引っ張ってツーっとねじ切る。力のかけ方を間違えるとつまみがちぎれてしまったりとなかなか繊細さが要求される作業なのだ。私は飲むヨーグルトが好きなのでよく飲む。牛乳はだいたい同じ味だが、飲むヨーグルトにはブルーベリー味だったりバナナ味だったりいろんな味があるから好きだ。何回か買ううちに開け方も上手くなり、この中蓋の存在を意識するようになる。

 

ペットボトルのキャップは開栓後も飲みかけに封をするときに活躍するが、飲むヨーグルトの中蓋は開封時点でもうお役御免だ。もう一度封をするときも外の青いキャップを使うので再び登場することはない。完全に役を取って代わられ、何かに再利用することもなく捨てられる。完全になかったことにされてしまう。どうにもならないやり切れなさがある。後から中蓋の存在をいとおしむことはない。邪魔なものだとさえ思われているかもしれない。衛生面を保つためにもなくてはならない存在だが、必要性を意識されることはない損な役回りである。

 

何か別のことに使えるかというとそんなことはなくて、ただ理由がなくなったものを持て余す。つまみ部分に指を通せば指輪になる、と思い試してみるもひどく不恰好だ。意味のないものに意味を問うと余計に意味のなさを浮き立たせてしまうことになる。原典はわからないが、ジュースのプルタブを結婚指輪にして告白する話を聞いたことがある。金属ならまだいいがプラスチックの中蓋では格好は付かない。中蓋の悲しみは募る。刹那的なおかしみはあるがそれだけだ。たくさん集めてみたがどうしようもないので捨てることにする。