わたしの27歳の誕生日

2月17日で27歳になった。27歳! 

 

もうそんなに若くないのかと思う。客観的ではなく主観的に。身の回りを覆っていた薄膜が剥がれて風が吹きつけ、中身がパリパリに乾いていくような気がする。若さとか初々しさで許されることがこれからもうなくなる。仕事や会話で昔のことを知らないときに「自分若いんで」と言うことがあったが、そのときは若く見られている客観像の私を頭で操縦する少しひねた私がいて、言い訳や牽制に使えるなら使っちゃえと思っていた。それももうできなくなるのかもしれない。

 

私だけが老いるのではなく周りもそれなりに年を重ねていく。友人が結婚してたり弟が知らない間に大学を卒業して就職したりしている。ゆるやかに流れる時間の川にエイヤと飛び込む人がどんどん遠くに流されているのを見ている。常に一緒に過ごしているわけでもないから結びつきも薄い。互いにひっぱり合うこともないので別々の存在だと強く感じる。なんとなくさみしい、という気持ちは日記を書くにあたって絞り出したものかもしれない。3日経っても私自身の生活は何も変わっていない。何か変化を期待していた。

 

ブログを書くにあたってこの1年、2021年2月から2022年2月までを思い出す。コロナウイルスの影響は1年前と変わらず、外に積極的に出ることもなく飲み会は減った。ワクチンを打ってぐぐぐと気持ち悪くなれたのはいい経験だったと思う。仕事はいろいろな記事に関われて楽しかった。観光記事、インタビュー記事、どれも記憶に残っているのは自分で執筆したもの。お店をやっている人とか街の人に話を聞くのが好きだ。

どんなお店でも必ず店主の個性がある。自分の好きなものを誰かにも好きになってほしい人、自分の理想の店がないから自分で作る人、自分と同じ考えの人を探している人。いろいろな人がいた。普通に暮らしているとお店でひとことふたこと交わすだけだろうが、インタビューをすると一人の人間としてぱっと鮮やかに輪郭だつのがおもしろい。考えや意図や目的があって人は動くし物はそこに配置されるのだなと当たり前のことを認識する。

やはり私に強烈な刺激を与えるのは人だった。手間を厭って人を遠ざけると大切なものを取りこぼす気がする。だけど人と話したり自分をこう表明するというのは面倒くさいことではあるのでうまいことバランスをとってどうにかやっていきたい。楽しいことだけつまみ食いするのは失礼なのか。適切なアティチュードがあるが、言葉によって楽しさを最大限演出すれば、私の底で腐臭を放つ面倒くささをマスキングしてくれるのではないか。だけど面倒くささがある時点で相手に対する申し訳無さを感じてそれが何かのえぐみになるはずなのでうまくいかない。

 

先ほどの話に戻ると考えやきっかけや生活にいい影響をもたらしてくれるのは人である。プライベートでも連絡をとる人やたまにいっしょに過ごす人がいてとてもありがたいと思う。だからこれからは手間を厭わず誰かに会ったり話したりしたい。おいしいごはんも食べたい。このコロナ禍の時代では難しいこともあるが。でも私は何に配慮しているのだろう? 

 

1月末で仕事を辞めた。それは大きな変化だった。私にとっては大きな決断で、毎月もらっている給料がなくなりもろもろの紐帯がすっぱり切れるということである。だけど辞めた。おかげで毎日自然に眠くなるし、体の不調も消えて快活になってきた。生活資金がショートするのはまだ先で、さしせまった不安はないのだが自分が突然死しない限り生活は続いていく。

だから持続可能性ということを考えて生活をしているとなんだかさもしい。スーパーで買い出しするときは同金額であれば量が多い方を買う、カロリーが高い方を買う、20円違うだけで10分くらい悩む。そんなことがある。食費を削ったとて根源的な解決にはならないし、削りやすいからただ削るだけなのだがなんだかその卑しさが染み付いてしまっている。

 

食費にお金をかけないように神経質に買い物をしているが、私は2000円くらいのほしい本はポンと買ってしまう。おいしいものを食べるよりも知識や知見を得るほうが自分が良くなる気がするからだ。だけどこないだ本を選んでいて、500円で24ページの詩集をカートに入れたときに値段に対して分量が少ないなと思ってしまって買うのを辞めた。これはけっこうよくない。持ち前の貧乏性を呪う。本はページが多いほど良い本というわけではない。量の観点で買い物をすると質が高いものにめぐり合う可能性がどんどん減っていく。最近そういうことを考えた。どういう風にお金を使うかということも考えなければいけない。なんのために持続をするか。それはすぐ死ぬより長く生きたほうが楽しいことも多いだろうという薄い期待があるからだ。

 

生活はそのようになっている。これからはフリーランスとして記事を書いてがんばっていこうと思っている。書く、ということに関して、2年前の2月からほぼ毎日更新していたnoteを今年2月で辞めた。いったん辞めてみた。疲れたから。よく2年も続けたなと思う。自分の記録として残していた。書いたけど振り返っていないので何を書いたかはよく覚えていない。2年続けて得たものは習慣だ。毎日寝る前に書く習慣があって書かないとなんとなく気持ち悪かったりしたが今はもうない。毎日スヤスヤ寝ている。やはりプレッシャーはあったのだな。読んでくれる人がいたことはとてもうれしかった。たまに散歩しておもしろいものを見つけたときにこれは自分のなかでまとめて出力しておきたいと思うことはある。もう少し休んでそういうことをやっていこうと思う。

 

わたしの26歳の誕生日 - たくちゃんのわくわくブログ

 

去年の誕生日の日記を読み返している。

 

「死にたい」と「殺してやる」のあいだで、10代後半、20代前半は前者だったが今は後者で、精神は育っている。だからその推力を持ったままどこかに突き刺さる、それが許される場所はnoteやはてなブログで、7年前にはじめてブログを立ち上げたときから変わらずフラストレーションを焚き付けて文章を書いている。

今は「殺してやる」ではないな。そういう心の底からメラメラと燃えるようなことはなくて、火だるまになって誰かに抱きつきたいという気持ちがある(これは概念的な例えで実行するつもりは全くない)。精神は育っているが、変に攻撃的になる部分があるのでそれはこれから律していかなくてはならない。私とその周りの人が気持ちよく過ごすために。暴力的なものはおもしろいと思っているが私が暴力になってはいけない。昨年書いていたどうせ死ぬから、という気持ちは変わっていない。諦めではなくて、生活への向き合い方は積極的である、と今も思っている。だけど会社を辞めて何もなくなったので積極性を失うとまずいかもしれない。

やりたいことはけっこうある。行ったことのないところに行きたいし、読んだことない本も読みたい。あらゆるジャンルのいわゆる古典を一通りさらっていきたい。知らないことがたくさんあるのでとにかく情報を詰め込みたい。人にも会いたい。やりたい記事もある。まったく何もしたくないというわけではない。ごはんもおいしい。まだまともである。気力もある。大丈夫だ。

 

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例のごとく欲しいものリストを公開させてもらった。欲しいから。欲しいものがちゃんとあるのもよかったと思う。もらえるものはもらいたい。食べ物が多い。前もって誕生日に送ってくださった方本当にありがとうございます。非常にうれしく思っています。お酒も本も私の血肉にしてがんばりますね。欲しいものリストって今いろいろあるらしい。でも欲しいから。ダメでしょうか?

 

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誕生日前に植物を買った。手から小さな手がたくさん生えている精神的ブラクラ画像みたいで気持ち悪くていい。部屋の中に自分と同じ時間の流れを共有してくれて、育ったり枯れたりするのはありがたいと思う。

帰省するといつも「疲れた」「早く死にたい」とつぶやいている父親が最近がんばって畑を耕したらしい。夏はきゅうり、秋にはナスと季節ごとに実る野菜を植えるそうだ。面倒を見て、自分とは無関係に育っていくものを見るのは精神にいいのだろう。私も同じ気持ちである。何かを育てていきたい。ここから1年は自分が何ができるのか見極め、できることを増やして価値を高めていくようなことをやっていくつもりだ。そう思っている。

 

明日は髪を切る。生活していると髪も伸びる。手入れをする。